「在庫はある」のに現場には届かない——ナフサ不足が日本を揺さぶる理由
「材料が手に入らないまま工事の期日が来てしまった」「仕入れ値が急に上がって見積もりが合わなくなった」——塗装や建材の現場では、こうした声が相次いでいます。一方、政府は「ナフサの総量は確保されている」と繰り返しています。
どちらも嘘をついているわけではありません。それなのになぜ、現場では材料が届かず、倒産件数が増え続けているのでしょうか。
この記事では、ナフサとは何かという基本から、「目詰まり」と呼ばれる現象のしくみ、そして今後の日本経済への影響まで、報道内容や専門家の見解をもとにわかりやすく解説します。難しい経済用語や化学の知識がなくても理解できるよう、できるだけ身近なたとえを使いながら説明していきます。
ナフサとは何か・なぜ今不足しているのか / 「総量は足りる」のに現場に届かないしくみ / 塗装業界をはじめとした現場への具体的な打撃 / 今後の見通しと私たちの生活への影響
今、現場で何が起きているか——倒産急増と資材不足の実態
「材料価格が危険水域」と業界団体が警告するほど、事態は深刻です。確認できる数字で現状を確認しておきましょう。
「塗装・防水工事」倒産件数
(帝国データバンク・2026年6月8日発表)
「通常どおり」入手できた
会員企業の割合
(日本塗装工業会アンケート)
2026年1〜5月80件は
2025年同期(87件)に次ぐ高水準
(帝国データバンク調べ)
・塗装業界では倒産件数が高水準で推移、小規模事業者ほど深刻
・回復に向けた動きは始まっているが、末端への浸透には時間がかかる
なぜ塗装業界がとくに打撃を受けているのか
塗装作業で使う塗料・シンナー・コーキング材はいずれもナフサ由来です。これらのうち一つでも手に入らなければ、工事そのものが止まります。さらに、塗料は樹脂・顔料・添加剤を組み合わせた混合物で、99%の原料がそろっても残り1%が欠けると製品として成立しないという特性があります。
消泡剤のような微量添加剤が一つ足りないだけで、塗ったときに泡が残り製品として出荷できなくなります。日本塗装工業会の若宮昇平会長によると、製造装置の都合上「仮に1週間に200キロずつ材料を入手できても、装置を回すには5週間待たなければならない」ケースもあるといいます。
価格面でも深刻な状況が報告されています。すでに契約済みの工事では材料費が急騰しても受注単価を変更しにくく、差額を労務費で吸収せざるを得ない状況が続いています。若い職人の育成や賃上げに取り組んでいた矢先の打撃で、「職人を解雇せざるを得ない」という声も一部で出ています。
「ナフサって何?」から始める5つの疑問
「ナフサ」という言葉を初めて聞いた方のために、基本的な疑問にひとつずつ答えます。
ナフサ(粗製ガソリンとも呼ばれます)は、原油を加熱・蒸留する過程で取り出される成分の一つです。ガソリンや灯油と同じように原油から作られますが、そのまま燃料として使うのではなく、プラスチックや化学製品の「原料の原料」として使われます。
塗料・シンナー・ペットボトル・フィルム・繊維・医薬品など、ナフサが関わる製品は私たちの生活のいたるところに存在します。帝国データバンクの調査(2026年4月)によると、ナフサ関連製品の仕入れに関わる製造業者は国内に約4万6741社あり、全製造業のおよそ3割にあたるとされています。
報道によると、2026年2月末、米国・イスラエルによるイランへの攻撃を機にホルムズ海峡が事実上の封鎖状態になったことが直接の引き金とされています。日本はかねてから中東からの原油輸入に大きく依存しており、この海峡が通れなくなると原油やナフサの調達に支障が出ます。
ここで重要なのがナフサの備蓄構造です。原油には国家備蓄(約250日分)が整備されていますが、ナフサには国家備蓄制度がありません。民間在庫は約20日分という非常に薄い水準だったため、中東情勢の変化が即座に石油化学産業の稼働に影響しました。日本は現在、アメリカやアフリカ、南米などからの代替調達により一定量を確保していますが、サプライチェーン全体の混乱は続いています。
これが今回の問題の核心です。政府が「足りている」と言うのは、日本全体の備蓄や代替調達を含めた「総量」の話です。しかし実際には、原油からナフサ、そして最終製品へと至る過程で、製造業者・問屋・販売店など多くの中間業者を経由します。
炭化水素リサーチ株式会社の柳本浩希氏は、「目詰まり」の原因として、このサプライチェーン各段階の価格転嫁のズレを指摘しています。「値上がりする前に売りたくない」「値上がりする前に確保しておきたい」という動きが各段階で連鎖し、購買力のある企業や強い取引関係を持つ企業に物が集まりやすくなる。その結果として川下の末端に不足が生じるという構造です。「総量」と「手元に届く量」は別の話なのです。
ナフサを「ナフサクラッカー」と呼ばれる大型装置で高温分解すると、エチレン・プロピレン・ブタジエン・ベンゼン・トルエン・キシレンなど複数の化学品が生まれます。柳本氏によると、ナフサ由来の生成物の約50%はエチレンやプロピレンで、一方でトルエン・キシレンなどは合わせても生成比率が低いとされています。
この割合は技術的に大きく変えることができないため、塗料や溶剤の原料となるトルエン・キシレン系が今回特に不足しやすい構造になっています。「欲しい成分だけ増産する」ということが難しいのです。
カルビーは2026年5月12日に正式発表し、同月25日出荷分からポテトチップスなど主力商品のパッケージを白黒2色に変更することが報じられました。印刷インクの不足が身近な商品にも波及している事例として広く注目されました。建材・塗料の不足は住宅の新築・リフォーム工事の遅延や費用上昇につながる可能性があります。
野村総合研究所エグゼクティブ・エコノミストの木内登英氏は、「在庫が減るにつれてじわじわと広がる性質を持っている」と指摘しています。今すぐ生活が激変するわけではありませんが、住宅工事や塗装工事を検討中の方は、費用と工期に余裕を持った計画が必要になりそうです。
「総量は足りる」のに届かない——目詰まりのしくみを読み解く
専門家の分析をもとに、なぜ「在庫はあるのに現場に届かない」という状況が起きるのかを整理します。
ナフサから製品が生まれるまでの長い旅
柳本氏によると、ナフサは何段階もの化学反応を経て、何万種類もの最終製品へ枝分かれしていきます。その結果として、川上(基礎化学品)・川中(ボトル、フィルム、溶剤、シンナーなどの加工品)・川下(製品メーカーや建設現場)までの「長く複雑なサプライチェーン」が生まれます。
政府が「目詰まり」と呼ぶ現象は、このサプライチェーン各段階の価格転嫁のズレから生まれていると考えられています。たとえば川上で高値の原料を仕入れた川中の加工メーカーは赤字を避けるために生産量を落とし、一方で川下の事業者は価格上昇前に確保しようと実需以上の注文を出す、という動きが各段階で起きるというのです。
コメ不足との「似ている点」「違う点」
2024年に日本を騒がせたコメ不足と比較する声は現場でも多く聞かれます。農家や倉庫にはコメが一定量あるのにスーパーの棚が空になる——流通の偏りによって末端に届かないという構造は確かに似ています。
ただし決定的な違いがあります。コメは最終消費財(食べ物)ですが、ナフサは「産業の基礎素材」です。塗料・建材・プラスチック容器・医療用品など数万種類の製品がナフサを起点としており、川下への影響が非常に広範囲に及ぶ点が、コメ不足とは異なります。
なぜ大手と中小で影響に差があるのか
取引先や業界によっては「特に変わっていない」という声もあります。これは嘘ではなく、大手企業や長年の取引実績がある企業は優先的に供給を確保できているためと考えられます。サプライチェーンの末端にいる中小企業・個人事業主ほど影響を受けやすく、逆に川上に近いほど影響が出にくいという構造です。
木内氏も「価格交渉力の弱い中小企業を支えることが、結果的に家計を守ることになる」と指摘しています。倒産が続けば、職人の流出や工事遅延という形で最終的には一般消費者にも影響が及びます。
今後の見通しは?
柳本氏によると、6月上旬現在、トルエンの輸入量が増加していることが確認されています。また政府が石油元売りからトルエン・キシレンを原料不足の川中メーカーに直接販売するルートを構築したことで、現場の隅々まで届くまでには時間がかかるものの、回復に向けた動きは始まっています。
一方で木内氏は「石油化学産業の混乱はしばらく続く」とも見ており、在庫が徐々に枯渇するにつれて品不足や価格上昇が生活の身近な領域へじわじわと広がる可能性には引き続き注意が必要だとしています。実際、日本ペイントはシンナー製品について75%の値上げを実施(建設通信新聞報道)しており、価格高騰はすでに現実のものとなっています。
この危機がもたらすもの——現場への打撃と長期的な課題
今回の混乱は悪い面ばかりではありません。長期的な視点では、日本の産業構造の改善につながる動きも生まれています。
- 調達先の多元化が進む
木内氏が指摘するように、中東への依存は以前からリスクとして知られていましたが、今回の事態を機に、アメリカ・アフリカ・南米などへの調達ルートの分散が加速しています。 - サプライチェーンの可視化が課題として浮上
木内氏は「どこにどれだけの在庫があり、どの製品がどの段階で詰まっているのかを把握できなければ、不安による在庫の積み増しや防衛的減産は止まらない」と指摘。政府と産業界が情報共有の仕組みを整備する必要性が認識されました。 - 直販ルートの整備
政府が石油元売りから川中メーカーへの直接販売ルートを構築したことで、従来の流通経路を迂回する新たな供給の道ができました。柳本氏はこれにより「早晩、現場の隅々までシンナーや溶剤は届けられるだろう」としています。 - 代替材料への検討
代替材料の検討など、平時には後回しにされがちだった議論が、今回の混乱を機に各産業で始まりつつあります。
- 中小企業・職人への直撃
価格交渉力の弱い末端の事業者ほど打撃が大きく、契約済み工事の赤字リスクが高まっています。帝国データバンクによると、2025年の「塗装工事・防水工事」倒産は通年206件と2000年以降最多を記録。2026年1〜5月も80件と、2025年同期(87件)に次ぐ高水準で推移しています。 - 熟練職人の流出リスク
日本塗装工業会の若宮氏は「仕事が戻って再雇用できればよいのですが、いったん離れた職人さんに再び戻ってもらえる保証はありません」と語っています。技能の継承が途切れれば、業界全体の長期的な競争力に影響します。 - じわじわと広がる生活への影響
木内氏は「第1次オイルショックやコロナ禍ほどの経済的打撃には至っていないものの、在庫が減るにつれてじわじわと広がる性質を持っている」と警告しています。一気に表面化しない分、気づきにくいリスクです。 - 不安報道が混乱を増幅する可能性
「品薄」「手に入らない」という報道が、まだ余裕のある事業者まで急いで確保に走らせ、実際の不足を悪化させる側面も指摘されています。情報の受け取り方が状況を左右する面もあります。
立場別に見る——あなたはどの影響を受けている?
ナフサ不足の影響は、立場や業種によって大きく異なります。自分に近いケースを確認してみてください。
材料の仕入れ価格と受注単価のギャップが最大の問題です。すでに契約済みの工事は「情勢が落ち着くまで待つ」と言われるケースもあり、単価変更の交渉が難しい状況が報告されています。施主への早めの状況説明と協議が必要です。
工期の遅延や材料費の上乗せが発生する可能性があります。見積もりを取る際は「資材高騰による追加費用が発生した場合の取り決め」を事前に業者と確認しておくことをお勧めします。工事の時期や費用への影響が生じる可能性があることを念頭に置いておきましょう。
カルビーが2026年5月出荷分から一部商品のパッケージを白黒に変更したように、インク・塗料・プラスチック部材の不足は製品の仕様や出荷計画にも影響しうることが示されました。調達先の分散が課題として指摘されています。
現時点では日常生活への直接的な影響は限られていますが、住宅関連の工事費用の上昇や一部商品のパッケージ変更・価格上昇は今後も続く可能性があります。専門家が指摘するように、過度な不安による在庫確保は流通の偏りを助長する可能性があります。
今すぐ確認したい7つのポイント
状況を正しく把握し、冷静に対処するために確認しておきたいことをまとめました。
- 「総量が足りている」=「自分のところに届く」ではない
政府の発表は日本全体の備蓄・輸入量の合計です。各流通段階での偏りが解消されるまでは、末端での不足は続く可能性があります。 - 塗料・溶剤系の原料は構造的に不足しやすい
ナフサの分解で得られる成分の比率は技術的に大きく変えられません。塗料・シンナー・溶剤の原料となる成分は生成量が限られており、需要が集中すると不足しやすい性質があります。 - 価格転嫁の交渉は早めに始める
建設・塗装関係の事業者は、施主との単価見直し協議を後回しにすると赤字が膨らみます。昨年秋以前の見積もりには今回の資材高騰は織り込まれていないことを説明し、早期に協議を始めましょう。 - 回復に向けた動きは始まっているが段階的
柳本氏によると2026年6月上旬時点でトルエンの輸入量増加が確認されており、政府の直販ルート整備も進んでいます。ただし現場の末端まで届くには時間がかかります。 - 必要以上の在庫確保は状況を悪化させる可能性がある
各段階での過剰な在庫確保が流通の偏りを加速させる一因と指摘されています。実需に基づいた適切な発注が、業界全体の早期安定につながります。 - 調達先の分散を中長期で検討する
木内氏が指摘するように、中東依存の調達構造は以前からリスクとして知られていました。今回の経験を踏まえ、複数の仕入れルートを確保する中長期的な計画が求められます。
「見えない素材」が社会を支えている——この問題が示すこと
ナフサ不足は、私たちが普段意識することのない「素材の流れ」が、いかに社会の根底を支えているかを改めて浮き彫りにしました。
今回の問題は、単に「中東情勢が悪化したから原料が減った」という話ではありません。総量としては確保できていても、長く複雑なサプライチェーンのどこかで価格転嫁のズレや流通の偏りが起きれば、末端の現場には届かなくなる——その構造が今回あらわになりました。
専門家が指摘する「サプライチェーンの可視化」という課題は、まさにこの問題の本質を突いています。どこに在庫が偏り、どの段階で詰まっているかが見えなければ、不安による積み増しや防衛的な減産は止まりません。
個人として今できる最も重要なことは、冷静に情報を見極めることです。柳本氏・木内氏ともに指摘するように、過度な不安による在庫の積み増しは流通の偏りを助長する可能性があります。企業・行政・消費者がそれぞれの立場で適切に動くことが、最終的には早期安定への道につながります。
- ナフサは国内製造業のおよそ3割に関わる基礎原料。2026年2月の中東情勢悪化を機に供給混乱が発生
- 政府の「総量は足りている」は事実だが、流通段階の価格転嫁のズレや偏りにより末端には届きにくい状況が続いている
- 塗料・溶剤の原料となる成分はナフサからの生成量が限られており、需要が集中すると不足しやすい構造がある
- 2026年1〜5月の塗装・防水工事倒産件数は80件(帝国データバンク)。シンナーを通常どおり入手できた会員企業は2.7%(日本塗装工業会)
- トルエンの輸入増・政府の直販ルート整備により回復に向けた動きは始まっているが、末端まで届くには時間がかかる見込み
- 中東依存のサプライチェーン見直しと在庫状況の可視化が、長期的な課題として浮上している
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